「夏の学校の作り方(仮)」

序:

 2000年8月22日、世紀が変わるまであと3ヶ月とちょっとというこの時期、 僕等は喫茶店に集まり、物性若手夏の学校の反省会を開いていた。45回を数える 夏の学校で初めてのインカレ体制であり、なにもかもが初めてさまざまな不手際があり、 反省すべき点はたくさんあった。引継ぎの問題まで一通り話し終わり、校長である石井さんに 締めの言葉を言ってもらうことになった。
「みなさん、ここまで本当にお疲れ様でした。最初はどうなることかと 思いましたが、みなさんのおかげでここまでできることができました。」
ここまで言って、石井さんの言葉は詰まった。見ると目が真っ赤である。
「ここまで・・・ここまでできるとは思いませんでした。感動です! みなさん、本当にありがとうございました。」
石井さんが泣いていた。校長という重責からたったいま解放され、 緊張の糸が切れたのだろう。その場に居合わせた全員が拍手をした。

 こうして、僕等の夏の学校は終わったのだった。

第一章:「夏の学校を引き受けるまで」

夏の学校初体験

 研究室の先輩が夏の学校の世話人だった縁から、僕は夏の学校を知った。 「友達たくさんできるから、行ったほうが良いよ」 という言葉に、何の気なしに参加を決定した。いまから考えれば なぜお金を払ってまで夏に授業を受けにいくのかよく分からない。 とにかく、別名を「物性苦手酒の学校」であると聞き、酒好きである僕は あまり何も考えることは無かった。

 第44回の夏の学校は43回と同様、長野県の志賀高原で開かれた。あとで知ったのだが、 オフシーズンのスキー宿を使うのがコスト面で有利らしい。長野に到着し、 バスに乗って志賀高原へ。やっとついた宿に泊まろうとしたら、どうも 人気が無い。宿の人に聞いてみると「物性若手夏の学校?私たちのところは 去年の夏の学校ですよ。」といわれてしまう。先輩からもらったテキストを 参照してきたため、間違って去年の開催地に来てしまったらしい。 幸い、宿の人が今年の開催宿(岩菅ホテル)を知っており、そこに案内してもらった。 開催県が違ったりしなくて本当に幸いだった。

 夏の学校では池上先生ら4人による「複雑系からみた生命と認知の問題(生物物理)」や 篠本先生の「脳のデザイン(脳・情報)」など、生物物理を二つと、青木先生の 「粉粒体の流動化(物基統計)」を受講した。まず思ったのは、みんなまじめに授業を 聞いているな、ということだ。考えてみれば、夏にわざわざお金を払って勉強しにきている 人ばかりなのだから、まじめなのは当たり前なのかもしれない。夜は先生を 交えての飲み。高安先生から経済現象の統計的な解析などについて聞けたのが 面白かったのを覚えている。

 初日に受け付けでもらった紙に、夏の学校の存続についてのパンフレットが あった。これまで夏の学校は8つの大学による回り持ちで準備局を請け負ってきたが、 数年前にそれが破綻し、以後、大学の立候補によって続いてきたらしい。 ところが、今年は次の大学が決まっておらず、二日目の全校集会で 現状説明と次の学校の決定をしようということだった。僕はどちらかというと 目立ちたがりで、誰も手を上げないようなシーンとした場で手を上げるのが 好きだ。今回も、誰も立候補がいなかったら次の準備局をやってもいいと なんとなく思っていた。しかし、僕が手を上げる、ということは 東大が準備局を引き受ける、ということだ。後で聞いたことだが、一緒に来ていた 同じ研究室の人も 「全校集会で渡辺が手を上げるかもしれないから、ちゃんと見張っておこう」 と言っていたそうだ。

初のインカレ体制、スタート

 二日目の夜、全校集会が始まった。僕等は大学別に固まって座り、 夏の学校の現状説明が終わった後、学校別に相談し、立候補を募るという 運びになった。しばらく相談したが、もちろん立候補しようという 大学はいない。そこで、僕は手を上げて、「研究室に迷惑をかけるわけには 行かないので、東京大学で引き受けるということでなければ僕はやります。」 と、こんなようなことを言った。結局、その場では次の大学を決めることを あきらめ、やってもいい、という人を前に集めることになった。
 集まったのは、広島大学の石井さんをはじめ、鳥取大学の制野さん、 姫路工大の千葉、大阪大学の小野、そして東京大学である僕など、 前準備局からの応援組も含めて最終的には大学も地方もばらばらの 12人であった。後で聞いた話だが、前準備局の人の一人は「インカレでやるのは 絶対に無理だ」と思っていたそうだ。その当時、夏の学校の運営について まだ僕は簡単に考えていた。
 新準備局のメンバーは部屋に集まり、すぐに石井さんを校長に、制野さんを 副校長にした。会計、印刷、会場はお金が絡むので同じ大学で固めた方が 良いと指摘され、東大で固めることにした。 ここに、夏の学校史上初のインカレ体制がスタートしたわけだ。 夏の学校の最後の日、主要な連絡は全てメーリングリストで 取ることにして、僕等は別れた。

第ニ章:「学校、動き出す」

引き受けたはいいが・・・何すればいいの?

 夏の学校から帰って、先生に準備局をやることを告げると 「大変だよ」といわれてしまった。まだ何も知らない僕は 「大丈夫ですよ」と答えた。無知は罪である。とりあえずすぐさま やったのは、準備局連絡用のホームページとメーリングリストの 立ち上げである。この辺はコンピューターに強い(昔、歩く16進数と呼ぼうと 提案して却下された)上野君に任せた。また、制野さんが夏の学校の公式ページを 立ち上げてくれた。

 しかし、立ち上げたは良いが、始めの数ヶ月、何をして良いか全く分からなかった。 当時のメーリングリストのログを見ると、11月になって、ようやく準備局が 動き始めたのがわかる。まず、物理学会でインフォーマルミーティングを 予約した。準備局員が気軽に集まることができないので、物理学会で 顔を見ながら話し合いができるようにだ。次に、印刷業者がようやく決まった。 それにより、テキストや企業広告の入稿形式や締め切りが決まり、少しずつ やることが見えてきた。

 企業協賛の返事が来はじめたのもこの頃だ。企業協賛とは、テキストの 最初に広告を載せることで、企業から広告料をもらうことだ。やってみると わかるが、企業と交渉するのは神経を使う。途中で協賛をやっていた 準備局員が院試のため戦線離脱し、僕が協賛をやることになったのだが、 これは後から考えるとミスキャストだった。密接な関係にある印刷と協賛を 同一人物がやるのは効率が良いが、仕事量が鬼になるのだ。ついでに、 僕は当時超夜型で、だいたい夕方に学校に来て明け方帰る生活だったため、 企業からの電話を全て研究室の助手さんが取っていたのは問題だった。 結局このような混乱のなか、大きな手違いをたくさんおかし、10万円以上 損してしまった。

 12月に入って、基礎物理学研究所からの援助を受けるため、石井さんが 研究計画を送った。また、物性研究所の援助をうけるための計画書の作成にも 入っていた。この頃は一日に10通から15通程度のメールをやり取りし、 時にはほとんどチャットのようになることもよくあった。 12月13日の午前5時には、僕が 「すごい時間にメールが来たので驚きました。 いくら師走は忙しいとは言え、もっとみなさん休みましょう(笑)」 と書いていることからも、メーリングリストは単に事務連絡の場ではなく、 確実に交流の場として重要な役割を占めていることが伺える。17日が 物性研への計画書締め切りだったので、みんなで草案を練り、苦労して 増額予算を獲得しようと苦闘している様子もわかる。無事に提出して ホッとするまもなく、今度は協賛依頼の書類をまったく送っていないことが 判明。結局12月に送ってもY2K問題等で無視される可能性が大きいので 1月の第二週以降に送ることとなった。実際に送ったのは1月24日だったようだ。

新年、そして先の見えない不安

 ついに年があけ1月。年賀の挨拶の後、MLの話題はもっぱらポスターセッションの 投票についてだった。ポスターセッションは参加者が自分の研究について ポスターで発表する場で、来ていただいた先生方に投票をお願いして 優秀賞を決めるイベントだ。これまでポスターの時間は自由時間というイメージがあり、 参加者は山登りや散歩など、外に出ることが多かった。それはそれで かまわないのだが、もっと参加者が参加している気になるように、 ポスターを見ている人による投票を行うことにした。 先生の影響力がかき消されるようなポイントを与えるわけにもいかないし、 その逆もよくないので、適切な比重を置くのは難しい問題だ。

 1月の後半から夏の学校の広告ポスターについての話題も出てきた。 どんなデザインで、誰が書き、どんな情報を盛り込めば良いのかが 全く決まっておらず、話は混乱していた。責任者不在の混乱である。 どんな仕事が誰の責任下にあるのか決めておかなかったせいであるが、 そもそも「ポスターは誰が責任を持つべきなのか」という疑問すら 浮かばなかったのが一番問題だった。このような問題を防ぐためにも、 しっかりした引継ぎ資料の必要性をみんなが感じるようになってきたように思う。

 1月27日、会計係である上野君と共に、印刷業者と折衝。いかに自分の 金銭感覚が甘いか思い知らされる。不要にお金を使ってしまうところだった。 また、いろんな仕事が並行して進んでいて、締め切りなどが混在しているために 仕事が効率的に進まないのが問題となった。同日、石井さんが、 「日程的な件ですが、内部連絡ホームページに でも”今後の予定”のようなモノを印刷係の立場で 作って貰えると助かります。」 と言っていることからも、予定がはっきりしないことが作業効率を 下げているという認識が伺える。これも引継ぎ資料に明記しなくては、 という思いを強くした。

 2月に入り、宿の絞込みが始まった。制野さんが「とっとりコンベンションビューロー」 という、県の観光振興の予算を取ることに成功したため、鳥取で探すことになった。 2月の後半には「大山ホワイトパレス」にfaxを送ったりしている。 また、講義・サブゼミのタイトルが出揃ったのも2月である。急速に夏の学校としての 必要要件を満たしていくにつれ、仕事も加速度的に忙しくなっていった。

 3月、石井さんが東大に来たので、僕と上野君の三人で会議をした。 やはりメールだけでは詰めきれない部分が多く、たくさんの問題点を洗い出すことが できた。ポスターセッションについて、前回ウェブサイトに情報が全く無かったため 参加に障壁があったので詳細な説明を載せようとか、会場の下見でやるべき仕事リストの ピックアップなど、細かい点を決めることができた。また、ようやくポスターの 責任者を決め(石井さんになっていただいたのだが)、仕事が動き出した。 3月6日、物性研で上野君と僕で援助金申請のプレゼンに行った。 直前に時間を計り、何度も練習したおかげで本番ではスムーズにこなすことができた。 そのときの安堵感がメールにも現れている。 「物性研のプレゼンが無事に終わりました。良い発表が出来ていたと思います。 質問に対する上野の返事もばっちりでした。」 これで、基研、物性研双方からの援助申請が終わり、残る収入は参加費と企業協賛となった。 これまであまり大きなお金にかかわったことがなかったので実感がわかなかったのだが、 世の中、どんなプロジェクトを動かすにも、文字通り先立つものが必要なのだと改めて実感した。

お金の問題とインカレの問題

 3月の終わりには、物理学会のインフォーマルミーティングでみんなが顔をそろえた。 下見や広告などについて活発に意見が交わされた。この、顔を合わせて議題を整理し、 解散してからメーリングリストで細部を詰める、という手法が確立したのもこの頃。 インカレであるために議論のほとんどがメールに残る、というのも逆に混乱が無くてよいようだ。

 また、実際にお金がかかり始めたのもこの頃である。 つい理想に走りそうになる中、お金の問題というのはあまり考えたくは 無いものだ。インカレ体制では会議をするにも数十万のお金がかかってしまう。 会計の上野君が下見にかかる費用を試算したところ、準備局員がちらばっている こともあり、全員分の交通費を援助すると20万以上かかることが判明。

 たとえば、東京から米子まで飛行機で行きたくなるが、それでは JRでいくより一万円ほど高くなってしまう。だが、JRでは往復で 3〜4時間以上電車に乗ることになり、本業である研究以外で それだけの体力を使うのもどうかと考えてしまう。

これでも我々は東京から広島、鳥取までに収まっていたが、次の準備局は 北海道から九州にまで散らばっており、この問題は深刻だった。 しかし、顔が思い浮かばないとメールで意見のやりとりをするのは 難しいので、顔をあわせるのは絶対に必要だ。 このあたりにもインカレ体制の問題が少しあったようだ。 結局、夏の学校は物理学会のインフォーマルミーティングを利用して年二回の会議を 確保するのが習慣となった。

第三章:「トラブル」

パニくっていいですか?

 4月に入ると、本業が忙しくなってくる。もともと3月、4月には 締め切りのある書類が多く、夏の学校のさまざまな締め切りと混同して 大変なことになっていた。僕のメールに泣きが入り始める。

最近本当にいっぱいいっぱいなので、もしかしたら来週の月曜日までは
無理かもしれません。火曜日か、水曜日にはなんとかします。

 この頃、広島大から上田さん、鳥取大から富山君、三宅君が参加。 4月には協賛の開拓など、人手がかかる仕事が増えたため、 石井さん、制野さんの近くの後輩に手伝ってもらうことになったのだ。 このうち、上田さんと富山君は次の準備局員として活躍することになる。 インカレになって最大の弱点は、引継ぎが安定しないことだが、 以後の流れを見ていると、準備局員のまわりや世話人から次の準備局員を 探す、という策がとられているようだ。結局、立候補より根回しが 安全かつ確実ということなのだろう。

 4月末にはポスターの入稿締め切りがあり、さらに僕が実質 協賛企業の窓口をやっていたために大変なことになっていた。 ミスが目立ち始めたのもこの頃である。まず、半面広告(4万円)の 企業に8万円の請求を出してしまう。エクセルデータの打ち込みミスである。 また、夏の学校が終わってから気づいたことだが、この頃大量に 来た「協賛お断り」の手紙の中に協賛してもよいという手紙が 混じっていた。全面広告用の原稿を半面広告として入稿してしまい、 後で謝罪して4万円返したこともあった。さらに、この後最大のミスを犯す。

協賛最大のミス

 僕は夜型であったため、昼に企業から電話が来ると寝ぼけまなこで 応対することになる。起きてシャワーを浴びているときに電話が 来ることもあり大変だった。4月24日にこんなメールを書いている。

#シャワーあびているときに電話がきたので、この応対中
#ずっと裸でした(;_; あやうく風邪ひくかと思いました。

 そんな中、A社から協賛取り消しの電話が来たので、協賛取り消しの 手続きをとった。具体的にやる事はホームページから削除、データからの削除、 広告ポスターからの協賛企業名削除である。 6月頃にはポスター発送、テキストの準備、協賛の連絡などの仕事が いっきに発生し、死にそうになっていた。メールでも弱音を吐いている。

>しょう…と思ったけど、今日は東大学内便のポスターで忙しいんだっけ?
>いろいろと渡辺さんのところに仕事が貯まってしまってすみません。

大丈夫・・・といいたいところですが、正直さばききれていません。
協賛の広告の督促の返事への対応、業者との広告のレイアウトに関する
折衝、テキストを全て印刷して、まとめる仕事など、早いところ
仕上げなければいけない仕事が山積みですが、ちょっと分担しにくい
仕事ですよね・・・

 その後、疲れた僕にB社から電話が来る。 「うちは広告取り消したはずなのに、ポスターが送られてきたがどういうことか?」 さらにA社からも、 「うちの名前がポスターに入っていないのはどういうことか?」 という問い合わせ。実は広告を取り消したのはA社でなくB社であり、 僕が寝ぼけて取り違えてしまったのだ。どちらも出版社であったことも 間違いのもとであった。結局両社に謝罪し、A社には広告費無料を申し出たが、 ご好意により、半額出してくれることになった。結局、僕が協賛を 担当したことで10万〜15万以上の損失を出してしまった。 原因は電話にあった。あとで証拠が残るメールになれていた僕は、 電話した後はすぐにメモを取る、という当たり前のことをさぼってしまったのだ。 また、大量の情報に頭が混乱していたこともあった。仕事をしっかり 割り振ることの大事さを身をもって知った。

テキスト発送

 印刷会社からテキストが届いたとの報告をうけ、うけとりに向かう。 ・・・重い。一つ2キロはあろうかという分厚いテキストに思わずたじろぐ。 なんとかうけとり、研究室に山積みにする。 しばらくテキストを眺める。苦労の甲斐あって、こんな立派な テキストができたんだなぁ、と感無量である。
 みんなに手伝ってもらって手紙とともにどんどんつめていく。 このころにはタックシールにいっきに住所を印刷するノウハウを 身につけていたので、それなりにスムーズに進むが、それでも一日仕事となった。
 そして郵便で発送・・・しようとすると、恐ろしくお金がかかることが判明。 もはや発送スケジュールからは遅れに遅れていたため、かなり焦ったが、 深夜風邪でダウンした会計の上野君から「書籍小包なら安く上がる」と連絡が 来てひと安心。郵便局で「書籍小包ハンコ」を借り、 普通の生活してたら一生しらなかった作業をしているんだなぁ、と 思いながらひたすら全ての小包にハンコを押し、発送。 印刷の仕事はこれで終わったのだった。

第四章:「本番」

 正直いって本番は連絡メールも残ってないし、 あっというまに過ぎ去っていったので、あまり覚えていない。 当時の日記から引用しながら、本番をちょっと振り返ってみる。

 8月17日に現地入りし、夕方から会場設営を開始。 特にポスターセッションの会場を作るのが面倒だったが、 このあたりは下見をしておいたので、さほど混乱せずに 実行に移すことができた。しかし、どの講義室がどちら、という 矢印をホテル中に張り巡らす作業が思ったより難航し、 あまり寝ないまま18日に。下見の時に何に気をつけるリストを しっかり作るべきだった。

 8月18日には受け付け開始。雨で電車が遅れるなどの トラブルがあり、その対応に追われたほかは おおむね無事に参加者が到着。その日の日記には、

 晩飯時に百人以上の人がテーブルに座っているのを見て、 夏の学校に人が集まったと実感する。夜は引き継ぎの準備。 夏の学校が終ったような感覚があるが、まだ始まってもいないことに 気が付いて愕然とする。 夜、世話人を集めて引継ぎ会議。なかなか 白熱した議論が出たが、とりあえず現状維持のシステムを支持。


とある。特に引継ぎ問題についてはこの頃から危機意識が強く、 様々な議論が交わされた。この時、新しい引継ぎシステムとして、 「夏の学校支部」制度が提案された。これは日本各地に 支部をおき、そこで、夏の学校の準備を手伝う人を養成、 その中から実行委員を募るという方法だったが、 支部をまとめる人の確保や、どのような準備を分担させるべきかなどの 難しさから今日まで実現にいたっていない。ここでいう「現状維持」とは 夏の学校の中日に現状を説明し、次の委員の立候補を募る、というものだったが、 当時から、立候補よりスカウトが多かった。 8月20日の日記によると、

 勝負の中日。昼まで寝る。石井さんとプレゼンの最終調整。 シンプル路線で行くことにする。そして全校集会。石井さんが現状説明後、 僕がスピーチ。そこそこ受けたようだ。北原先生にも誉めてもらい、かなり うれしかったが、立候補は二人だった。どうも集会で勝負するより 根回しが大事だと思う。今年は事前に6人の候補がいたので、 悲壮感が漂わずにすんだ。夜、引継ぎ会議。 来年の夏の学校が 動き出したのを見て感動する。ようやく肩の荷が下りた。 夜遅くまで世話人と来年以降の学校の運営を話し合う。


出だしの「勝負の中日」に意気込みが感じられる。 最終的に第46回のスタッフは11人になるのだが、 当日決まったのが8人、その中で立候補は2人だった。 また、この中でかなりの人数が継ぎの年にも準備局員をやることになっている。 この「スタッフのかぶり」はスムーズな引継ぎをする上で 大きな助けとなったようだ。我々の代にも44回から引き続き スタッフをやっていた小野君がおり、運営の助けとなっていた。

引継ぎ:

 夏の学校終了後、様々なデータや資料、ノウハウの引継ぎに入る。 スタッフは自分が担当した役割分の引継ぎ資料を書き、HTML形式にまとめて 46回のスタッフに回した。会計の仕事は夏の学校が終わってからが 一番大変なのだが、僕の担当で無いので詳しくはわからない。

 引継ぎ資料の受け渡しはだいたい10月に終わっている。 夏の学校終了直後から引継ぎ用のメーリングリストを作り、 45回、46回のスタッフが参加していたが、しばらくして 46回のスタッフが独立する形で、完全に引継ぎが終了した形となった。 テキストの出版をしてくれた出版社に行き、代金振込み終了の確認を取って 僕の夏の学校の仕事は本当に全て終わった。

終章:

 引継ぎも無事に終わり、去年準備局だった我々も一般参加者として 第46回の夏の学校に参加することができた。自分たちの作ったシステムが 引き継がれつつ、さらに発展するのをみて、何かが動きだしたんだ、という 気持ちを新たにした。この原稿を書くにあたり過去のメール全てに目を通したが、 なにより驚くのは準備局員のエネルギーである。メールからは生命力というか、 なにかほとばしるものを今でも感じる。自分の書いたメールにも、 「夏の学校を成功させるのだ」という気力に溢れていることに驚く。 ふとしたことで参加した夏の学校に、ここまで深くかかわることになるとは 全く予想しなかった。

 一度、当時同じ研究室で、会場係をやっていた福島と「夏の学校はそんなにまで して守るべきだろうか」と話し合ったことがある。無論つぶすには惜しい。 本当にみんながそう思っているのならつぶれないはずである。 夏の学校の運営にかかわり、確かに大変だった。準備局員にならなければ 大幅に時間が空き、別なことができただろう。しかし、こんなにも充実した一年間を すごし、多くの友達(というか、戦友)を得ることはできなかったわけだ。 将来、僕がどんな道に進むかはわからないし、それまで夏の学校が続くかもわからない。 そもそも、夏の学校の意義とは何か?それすらわからずに僕等は 夏の学校を守ったわけだ。結局、結論は出ないまま、今年も夏の学校が開かれようとしている。

2002年春、渡辺記す

2003/6/24 追記。


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